SHILISUのすとれーじぼっくす

詩、文章。日記。書いてる人は適応障害。抑うつ状態で休職してましたが復職しました。

○論○幼き頃の失敗体験の重要性

いうほど論じてません。

眠くなったので寝ます。

そして、そんなに時間かけずに書いたので、支離滅裂です。

 

先日、甥の夏休みの宿題をみてやって思った。

 

「(甥の) わからないが“わからない”」

 

あたしは勘をとるのがとても上手く、小学校のお勉強はピカイチでできた。先生はお勉強あんまりなクラスメートはあたしの隣の席にした。80点のテストで「マジか、、、点数悪いな、、、」と思った。

一聞いて五くらい(十と言えるかはわからない)は「はーん」となった。

十言われたら十二から十五くらい返した。

 

ま、幼少期の天才、今は凡人。

 

そんなこんなで、まぁ、甥の宿題を2日かけて見て気づいたのは、「失敗体験の大切さ」と「失敗体験からの応用力」との関係だ。

 

「間違うことを怖がると答えを全く書かなくなる」

 

教職関係の立場から言えば、小学生の夏休みの宿題ごときで満点なんてとらなくていい。

「長期休み中にも部屋で勉強のために椅子に座る時間を確保する」

「前学期の振り返りをする」

大きいのは、この2つだ。

一番は前者。確実にそう。

 

あとは、他人が読める字が書ければ良し、解答欄に書く文章などは問題文に載っている漢字を使って答える、この2つができれば最高なめちゃくちゃいいこ。くらいである。

 

あたしの時代と甥の今、全く時代が違うので、学習指導要領も違う。つまり教育自体の方針が違う。これは仕方ない。けれど、子どもというステージは同じな訳で。

血も1/8~1/4は、彼と一緒なわけだ。

 

そう考えると、何故、ここを勘とることができないのかおばちゃんにはわからない。

そして、ばぁば(私の母)が正解を解答欄に書かせたい意味もわからない。(これは永遠の謎だ、未だにこれで喧嘩になる)

 

間違えても、直せばいい。

まだ一生を左右する問題は来ていない。

 

どこを間違えたのか、理解させることの方が大事で、失敗体験から次回の成功を導くことが必要なわけだ。

なので、できれば間違えた答えはそのままに、空白に色を変えた筆記具で新しい(正答への)考え方を書きたい。

 

甥の回答用紙は、綺麗すぎだった。

計算過程の筆算も簡単な計算の覚え書きも一切ない。

あれだと計算ミスに気づかない。

 

おそらく、甥はドリルとかワークといった反復練習が足りていないのではないか。

計算過程や、箇条書き、その手のものであたしのプリントは答え以外のスペースが埋まっていた。

だから、頭で計算も大事だが、箇条書きのような計算を残すように。

単純な計算や簡単な基礎問題を、同じような問題を順番を変えて何枚も。そんなことをしてきていないから、計算が遅くて、パターンの中から解答へのピースを取り出すのに時間がかかっているように思う。

もっと問題や計算のパターンを手札として持っていた方がいい。

 

甥は、比較的こだわりが強い傾向がある。

この「こだわり」って、なかなか厄介。

あたしもあるにはあったが、パターンが増えすぎると、こだわってられなくなった。

 

なので、今回の宿題では、欄外に計算も式もたくさん書かせた、なるべく書くようにとも言った。

 

間違えることは次に正答を得るための大切なプロセスだ。

計算の反復はひらめく解答に必須。

 

そして「本、読むよ」のホントの程度を、姉さんは気づいているだろうか。

あたしは小4で姉に進められた赤川次郎にハマって、小説をばしばし読み始めていた。

あと児童文学の厚いやつとか垂涎モノだった。

あのレベルじゃないだろ?と本気で思う。

 

「本読むの好き」のレベルは寝食を忘れて本を読み、歩きながら本を読み階段を踏み外してしたたかに尻を打っても本を離さないくらいだ。(痛かった←未だにやりがち)

 

とにかく、上手になるためには繰り返すこと。

そして、適度に休んで、ポイントを整理すること。

 

失敗体験は大事だ