慰霊の日によせて
(2015年6月23日Facebookより)
「20150623 慰霊の日によせて」
手のひらに「鎮魂」と書いて拝む
一年に一度
正午
南に向かって
伝えたい想い
叶えたい願い
開いた手のひらに
そっと息を吹きかけて
広がれ
伝われ
遠くまで
通っていた中学では、慰霊の日に平和行進をしました。6kmくらいの距離だったと思います。
何故だか6月23日はいつも晴れで、暑くて苦しくて。
中学2年生のときに気づきました。直前まで梅雨だったんだと。
米軍が読谷村渡具知に上陸したのは4月1日のこと。そして、今で言うところのゴールデンウィークから梅雨に入ります。一ヶ月近くは梅雨があって、梅雨があがると、突き刺さる陽射しの夏がきます。
北に逃げたか南に逃げたかで全く違う被害。
ハワイ移民が居たか居なかったかで違う集団自決の違い(読谷村の防空壕の違い)。
あぁ、なんて、苦しい苦しい思いを昔の人はしたんだろう。ごめんなさい、ごめんなさいっ、何がかもわからないけど、とにかくごめんなさいって、そんな気持ちになって。
そればっかり覚えていて、未だに、毎年この日はその気持ちを思い出します。
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(2018年6月23日Facebookより)
今年の慰霊の日講演は台湾疎開経験者、あえて使った言葉は「棄民」でした。
まず、お話ししてもらったのは、時代背景。そして、それを踏まえた、台湾の日本統治地区への疎開を日本軍が推奨し。こんな暮らしをして、帰ってくるまでに。という話。
強く印象に残った内容は2つ。
沖縄でなく台湾に地上戦が来ることも十分に考えられた。そんな中での台湾疎開をすすめたヤマトゥ(「日本軍」と言っていましたが、恐らくヤマトの意識だと考える)の考えはいかがなものか。
戦後、ヤマト(さっきと似た意味合い)の人間はすぐに帰還を終えた。が、ウチナーンチュ(これも言葉は違ったけれど、そういう意識だと思う)を地元に帰す船はなく、置き去りにされ、物資も少なく身寄りもない中、マラリアなどでウチナーンチュが死んでいく。そんな中、地元の役所が出資しあって、漁船で迎えに来てくれたけれど、船に乗るにも1人10万円にあたる金額を払わなければ乗れなかった。
あたしは勉強が足りないし、経験しているわけではない。だから、台湾における地上戦の可能性、ウチナーンチュのみが置き去りにされたこと。これを理由に日本軍やヤマトの人たちを、強く否定も批判もできない。
ただ、沖縄県民として、慰霊の日には毎年必ず、正午に黙祷して、戦争を手段として選ばない心を持ちたい、伝えたい。
「棄民」って言葉を使う人がいる状況があった、あるいは、現もあるっていうことを皆に考えてほしい。
そして、それを鑑みたら、思うことはないですか?と。
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体調?心持ち?が向かず、今年はあまり言葉にできないので。過去の投稿を置きます。
12時の南に向かって黙祷は、アラームつけてやります。この日は各公民館からサイレンもなります。
今日は6月23日、沖縄慰霊の日。
75年がたちました。
ブログとしては、どのカテゴリーにも入れません。
そのうち「ナイチャー」と「ヤマトゥ」の違いを気が向いたら論じてみます。
沖縄県内と県外との米軍(米軍基地、米軍兵、軍属)に対する様々な感情や出来事は論じてみるのはなかなか難しいのですが。どうせなら、と、思いますけど。これこそ気が向いたときの話でしょうね。
ただ、「ナイチャー」と「ヤマトゥ」は確実に県内では意味合いが違うので。同じ「県外の人」の意味でも。
温度差です。温度差。
折しも昨日、米軍基地の施設が火事になって塩素ガスが発生って事故がありました。曰く、米軍基地の武器庫だか保管庫だかが、実家の10数~20キロ先にあるらしいあたしとしては、一瞬「!!」となりましたが雨が降っててよかったです。場所も考えていた場所とは違うようでしたし。
けど、実家にいれば米軍基地から聞こえる起床ラッパと就寝ラッパ。演習の乾いた銃声。実家の床も振動させて、小学校の二重窓にもかかわらずチャイムをかき消す訓練機の飛行音。運送ヘリも父の畑の近くに不時着したり、昔のことですが父なんて落下傘演習の時に空から畑にヘルメットが落ちてきたのを見て役所に届けたり、いろーんな感じで生活に近くてですね。
温度差あるよねーです。
そして、今日は、沖縄県のカレンダーで赤印のつかない唯一の公休日。
決して祝日ではありません。
心に留めていただけるとと思います。