SHILISUのすとれーじぼっくす

詩、文章。日記。書いてる人は適応障害。抑うつ状態で休職してましたが復職しました。

○論○実験動物とかの話

あまり、気持ちのよくない内容も含むかと思うので。読む読まないは途中で決めてくださいな。

 

先日、父との会話で。

片目のつぶれたネコがいるだろ?というのがあった。

この数年、実家の庭を縄張りの一部と決めているネコの話だ。片目のつぶれた茶トラのぶちゃいくちゃんで、警戒心が強いんだかなんなんだかだがのヤツである。ノソノソ動く。全くこちらに対する愛想はない。

ネコさんと暮らしてた両親はゴミ袋を漁る以外は声をあらげることもなく、台風の時には「避難しに来た」と軒をかす、ゴハンはあげない、そんな感じの距離感で、まさしくご近所さんだ。

その、片目くん。

先日、ノロノロと動くところを見つけたら、お腹が大きく重そうに歩いていたらしい。

「ウソだろーご懐妊か?」と父は思ったらしい(雄か雌かも知らないだろうが←父はそういうのに興味がない)が、直後。

片目くんの来た側に、鳩の死骸が落ちているのを見つけたらしい。

しっかり内臓はなくなっておったらしい。身もけっこう食べられていたらしい。「食後だったらしい」「2、3日分は食べたんじゃないか?」とのことで。「あいつは片目でも狩りができるようだ」と言っていた。

父は娘も来るのに見目も悪いなと、その死骸を下水に落としたらしい。

それを聞いた末娘は「見たい!!」とわざわざ父を外に連れ出し、どこに捨てた、と詳しく聞く。が、死骸は流されてもう見えなくなっていた。

「キモが落ちてる、ほら、あの赤っぽいの」と父が指し示したところには、肝なのか胆なのか、確かに焼鳥屋で見るレバーのようなテラッとした5センチくらいの内臓とおぼしきものが落ちていた。

父はそんなものが見たいのか?俺は気を使って捨てたのに、という風だった。

父は知らないのだ、僕ら姉妹が、そういった事象の前には、可哀想とかショックとか気持ち悪いと、思う前に、「え、見たい」と大いなる好奇心を持つことを。

現に姉に話したら、「(できれば全部だけど、そのキモだけでも)見たーい!」と言っていた。

 

姉は観察力が素晴らしい。疑問点もしっかりもつ。あたしは勝手に影響を受けたと思っている。

例えば姉は、車の運転中に信号で止まって、ネコが轢かれていたら、その死骸の様子を見られる時間、ガン見するタイプなのだ。もちろん、「冥福を祈る」という心がけもしっかりする。まぁ、時間が短い分、ガン見というほどでもないだろうが。

ただ、例えば理科の実験の解剖などがあるなら、すごくよくできると思う。うわぁぁぁ、と戦々恐々とするではあろうが、ホントにダメ、無理、嫌、みたいなことはないはずだ。むしろ、好奇心の方が勝ると思う。

かく言う、あたしは、確実に好奇心の方が勝る。確実に実験ならば興味と好奇心と探求心でたくさんになる。

もちろん、命がなくなることは辛いし、哀しいし、苦しい。

けれど、そことは切り離される部分だ。

それこそ、肉が一切食べられなくなる。

 

理科の実験で豚の目玉や腎臓や心臓が必要な場合は食肉加工所で、要らないところや売り物を購入する。豚の目玉は1つ50円だったか、そんな感じだ。

大学の研究室では生きたラットに麻酔をかけてギロチンで首を落として、なんてことを週に5匹やっていた。ので、そこの割り切りはしっかりされている。もちろん、夢に見たこともあるし、初めての執刀は、いろいろくるものがあった。が、ラットは商品で、実験用の血統一族が決まっている。そして、そのためだけに増やされているし、制限されている。ペットとはまた違う。これに可哀想だとか動物愛護だと言われると、これまた、薬なんて1つも飲めなくなる。むしろ医療というもの一切を受けられなくなる。全部その上に実験が成りたった上でこちらに享受されているものだからだ。

 

そう考えると。

野良ネコさんがネズミや鳩を狩って食べる。これってすごく自然の中の出来事で。普通のことだ。

生きるため。

そしたら、その食べられた後の死骸というか身体というか、それって、すごく、実験用動物と同じに感じてしまうのだ。

そうか、ここから食べるのか、ここを食べるのか、ここは要らないのか?食べにくいのか?なんてことを考え始める。

どうせ最後は食べるなら、父が釣ってきた魚を捌くのだってできれば横で見ながら、解剖レベルでひらきたい。つくりを全部見せろと思う。

「知ること」

「理解すること」

それが一番の供養だろと。

(なので、よく子どもがそういったものに対して「汚ない」という言葉を使うところに居合わせると、それは違うよ、見たときの気分とか気持ちが「気色悪い」とか「気持ち悪い」であって「汚ないものではない」と注意する。汚ないのは洗ったり磨いたりすると綺麗になるものだよと)

 

だから、飼う気がないのに、近所の野良さんたちに餌をやる人たちは許せなんだ。無責任で。

そういうのは「可哀想」ではない。

むしろ、それで増えたり居ついたりで苦情が入って駆除される対象になることが可哀想だ。まぁ、これは論点がずれるので、ここまでにするが。

 

ただ、驚くほどに。

いろんな命の上にあたしたちの命があることを知らない人が多くて辟易する。

まぁ、毎日そんなことを考えておるわけではないが。

そして、すべてがすべて、可哀想だなんだと、言われることにも辟易する。

今のコロナウイルスに関するいろいろから派生する「自粛しろ」「裏にどんな思惑があるんだ」ってのも辟易する。

 

話が完璧にそれたけれども。

 

先日の父との会話と、それを遠目に見る母が「わざわざ死骸を見たがらなくても」と考えているのに対して、身近な存在とは、ちょっと、こういうことも話したいなと思った、そういう今日この頃です。