SHILISUのすとれーじぼっくす

詩、文章。日記。書いてる人は適応障害。抑うつ状態で休職してましたが復職しました。

☆言葉☆愛という言葉 2009年12月25日

「愛という言葉」(2009年12月25日mixiより)

 

愛という言葉をよく聞くけれど。
愛という言葉を使うとき、よくわからなくなる。
愛という言葉を使われるともっとよくわからなくなる。
でも何だろう。
確かに存在するのだと思う。
形がないからわからないのか、見えないからわからないのか。
あたしに感じられないだけなのか。
けれどどうしてだろう。
人はよく、愛という言葉を使う。
愛とは何なのだろう。
愛とはどういうものなのだろう。
確かにそこにあるもので、確かにそこでやりとりされるものなのか。
存在するのだろうけど、よく、疑うことがある。
けれど時に、ある特定の瞬間に、感じた気がすることがある。
家族に守られたり、友にゆだねられたり、そんな時だ。
恋人との間に感じたことはあまりない。
家族も友もかわらないが、恋人は時々かわる。居ないこともある。
そういうものなのだろうか。
そういうトコロに愛は存在するのだろうか。
もしあたしが愛を理解して。
実行する時。
あたしにどんな変化がおとずれるのだろうか。
妻になり、親になるのだろうか。
よく、わからないけれど。
人はよく愛という言葉を使う。
愛しているという言葉がある。
大切にするという言葉と同じだと、昔誰かから聞いた。
大切なもの。
あたしにとって大切なもの。
キチンとそれを理解できた時。
あたしは愛していると言えるのだろうか。
きっとそうなんだろう。
きっとそうなんだろう。
じゃあ、親が子が、愛という言葉を使う時、それは本当で本物なんだろう。
ならば愛はまだ使えない。
家族を愛している。うん。しっくりくる。
友を愛している。うん。照れるが確かだ。
恋人を愛している。…今は居ないのでわからない。居たときも不自然な気がした。
愛という言葉がある。
今は家族と友だけにしか使えない。
きっとそうなのだろう。
考えて考えて、考えてみた。
使う時はとても大切な時だ。
きっとそうだ。
だから大切にしまっておこう。
時々出してみよう。
あたしの内にある愛。
人々の内にある愛。
堂々と使える日は、いつだろう。

 

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あたしのひまわり夫婦には照れずに「愛している」と言います。

今、思えば、「恋人が欲しいんじゃない、パートナーが欲しい」ってあたしが言うのは、そういうことだったんだな。と。

もう10年も前にわかってたじゃない。と。

ちょうどよく、あたしを理解してくれる人。

煩わしくて、気むずかしくて、細かくて、いい加減で、だらしなくて。

そんなあたしを、ちょうどよく、理解してくれる人。

家族も親友ちゃんたちも、ちょうどよく、完璧か?といえば。

どうだろうか。

あたしよりわかっている部分と、あたしにしかわからない部分と。

やっぱりある。

うん。

たぶん、皆にとってあたしもそう。

 

でも、求めることはやめないし。

 

今も同じこと考えてる。

恋人は変わるけど、家族と親友は変わらない。

 

親友になりたかった人がいる。

だけど、たぶん、ムリだね。もう。

ね、君。

あたし、これに関しては心からかなしいよ。